やりかけてることを意識しつつ、生活のリズムを
2020.10.20
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。約束までの時間の過ごし方を気にする性分なんですよ。遅れたり反故にすることを避けたいですしね。計画(=自分との約束)に関しても同様です。ただ約束が完了するまでの「やりかけ」の時間が、生活のリズムを上手く整えてくれるようにも思うのです。
約束までの時間
昨晩、深夜に久々の飲み会から帰宅すると、参画先の社長から「ご相談があるので、電話でお話できませんか? 空いてる時間を教えてください」とメッセージが入っていました。
「午前中は出たり入ったりするし、夕方以降は着電に反応しないから、12時〜16時くらいがありがたいな」と返すと「では12:30に」と即レス。
どうやら今日12:30あたりには、スマホを手元に起きつつ、ちゃんとお話ができる状況を作っていなければならないようです。
また、いま外壁の補修を業者にお願いしているのですが、工事自体は職人が勝手にやってきて作業を進めていくようなのですが、今日がその作業の初日なので朝8時過ぎくらいに挨拶に来られるようです。
なので今日は、ランニングにも出かけずに待機しています(現在、朝7時)。
約束の時間までに、帰ってくればそれでいいはずなのですが、どうしても「何かあったら」と考えてしまうんですよね。
「途中で知り合いと出くわして、話が弾んでしまったら」
「途中で事故やケガをして救急車で運ばれてしまったら」
これまでの人生で一度もなかった(知り合いと出くわすは、あったか…)ようなことを想像しながら「約束した以上、それを違えるわけにはいかないな。万全の体制で臨もう」と考えてしまうのです。
昨夜の飲み会だって、一昨日に決まったスケジュールなのですが「そうだ、飲み会だったら現金が必要じゃないか」と昼間のうちに一旦現金を下ろしにコンビニに出かけ、そのあとも集合時間から逆算しつつ過ごしていました。
こういうのって、おそらく「性分」なんだと思うのですよ。
アプリなりメモなりで、約束に間に合う直前ぐらいで思い出せるようにしておけば、その時間までまったく気にならない人も多くおられるでしょうし、中には約束をしたことすら忘れがちな方々も……若干ではありますが、おられますよね。
僕の場合は、1日のはじまりからずっと気にし続けているのです。
明け方寒くて、目が覚めたとたん咳き込んだりしようものなら「あ、今晩飲み会なのに、まさか風邪じゃないよな」なんてことを気にしてしまうし、約束時間を気にしながら「○時ランチを採って…。飲み会スタート遅めだから○時くらいにサンドイッチくらい腹に入れとくか」などと、こまごまとしたスケジュールを組んでしまうのです。
僕はこの性分、良いとも悪いとも思っていません。
「昔っからそうだもん、仕方ないよね」くらいの感じです。
仕事以外のことで生活のリズムを
ただこの性分、前項のように「今日、飲み会だから」とか「クリーニング取りに行かなきゃ」「誰々から電話かかって来ちゃうな」という短いサイクルの約束のみならず、人生のイベントだったり、研究課題っぽいことだったり、ちょっとサイクルの長い約束に関してもこんな感じなのです。
こういうのは「約束」っていうよりも「計画(=未来の自分との約束)」って言ったほうがわかりやすいですかね。
総じて、常時うっすらとした気忙しさの中で生活している感じなんですよね。
だから、このブログでもずっと書いてるように、いま僕は「仕事、全部クローズさせて無職になったよ。これから超長期休暇だ」という状況にいるのですが、完全に休みきれてるワケではないのですよね。
どこかしらで「今週やること、週やること」、「明日やること、あさってやること」を考えてるし、気になって仕方ないのですよ。
逆にいえば、それによって生活のリズムを作ってるんでしょうね。
無職になったこと、山口県萩市に移住したこと、古民家を購入したこと、自動車運転免許を取りに行ってること、他にも数え切れないくらいの「やろうとしてること」があって、「やり始めたこと」もあれば「これからやろうとしてること」もあるのです。
つまり、いつだってなんらかの「約束までの時間」だし、そう認識しているほうが日々の生活が充実するような気がしているのですよ。
別のブログ記事では「何も考えずに、ボーッとした時間を過ごすことが大切」みたいなことを書いてるかもしれませんが、まあ、ときにはあっち、ときにはこっちなのです。
無職になってからこっち、ちょっとした変化があるとすれば「約束」に含まれる「仕事」成分が極端に減ったことですね。
そのおかげで、以前は「気が向いたらやればいいや」くらいに思ってた生活上のことが、約束に昇格し始めてるような気がします。
以前は、仕事以外だと「病院に行く」「どこどこで、誰かと会う」くらいまでは約束だと認識していましたが「今日のお昼は、うどんを食べよう」みたいなのは、他人との約束でもない限りすぐに忘れがちでしたし、「止まってる時計、修理に持っていかなきゃ」みたいなのは、結局引き出しの中の目に付きやすい位置には置いてるけど、何年もそのままだったり。
そういうものに、ちゃんと気が回るようになりはじめた感じがしています。
次々と新しい、やりかけを
仕事にせよ、生活上のイベントだったり、人生の研究課題だったりにせよ、何かしらの「仕掛り」を多く抱えていて、そのくせ別のものにも関心が行って、新しいことをスタートさせて「仕掛り」を増やしてしまったりってこと、よくありますよね。
「仕掛り」っていうと、なんとなく仕事っぽいですが、早い話が「やりかけ」ですね。
子供の頃は「なんでもなんでも、やりかけのままにしないで、ちゃんと終わらせてから次のことをやりなさい」なんて言われてたもんですが、50代半ばのいまの僕は「やりかけが多い方が、人生豊かな気がするんだけど…」などと思うこともあります。
実際に、口では「無職になって、田舎に移って、ゆっくりしたい」なんて言っていましたが、結局は次から次へと「仕掛り(やりかけ)」を増やしながら暮らしてるような感じもしますしね。
ホントに「なにもせずにゆっくり」し始めてしまうと、人生ダメになっちゃうような気がするんですよね。
冒頭に書いたように、昨日は高校時代の同級生が5人集まって飲み会が催されたのですが、そのうちの2人(僕を含めて)がセミリタイア組、もう1人もなんとなくのんびりとした自営業者だから似たようなものかな…。残りがサラリーマンと公務員。
その中で「リタイアするなら、アタマもカラダも動くうちに限る。65歳になって気力も体力も失ってからじゃダメよ」みたいな話題にもなったのですよ。
これ、僕もときどきこのブログ内で主張している考え方なんですよね。
(参考:老後を始めるなら、お若いうちに)
「みんな似たようなこと考えてるんだなあ」と思いながら話に参加していました。
元気なうちに「仕事」から離れた方が、生活だったり人生だったりの「やりかけ」を増やす(=新しいことをスタートさせる)ことができるし、それらと向かい合うことで人生のベクトルを微調整できるんですよね。
そして「やりかけ」があるのだから、体調もキープしなきゃいけないし、なによりも長短さまざまなサイクルの「約束」を他人や自分とすることになりますので、それによって生活のリズムができるのです。
これからも中途半端で終わるものを量産するかもしれませんが、とりあえず「気になったら始める」を続けていこうと思います。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。