他人の失敗を笑わない自分でいたい
2020.10.27
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。往々にして、他人には「失敗は宝物だよ」とか「ミスを恐れずに」なんてことを自信満々に言いますが、自分事となると失敗を避けたくてビクビクしながら行動しがちですよね。失敗はしたくもないのにしてしまうものだからこそ「宝物」なのでしょうね。
「失敗こそが宝物なんだから…」
昔っからよく「間違っても構わないんだから、自分の考えを言いなさい」とか「ミスってもいいんだから、思った通りのプレーをやりなさい」なんて言われてきましたよね。
そのくせ、テストでは正解を求めてきて、点数のいい子/わるい子で優劣が付くし、遊びといえどもスポーツをしている中でミスばっかりしていると「お前がチームの足を引っ張ってるんだぞ」的なチクチクとした視線に晒されたりして「いったい、どっちなんだよ」と感じながら大人になってきたような気がします。
このへんの折り合いをつけるのは、大人になってもなかなか難しかったりするんですよね。
簡単に「これが正解です」なんてことあるワケないのわかってるのに「自分はこういう役割で呼ばれているのだから」とか「ここはちょっと利口そうに見られたほうが得だぞ」みたいなことを考えながら「答えるべき正解」を探し回ってしまうのです。
なんだかピントっぱずれなことを発言するのが恥ずかしかったり、沈黙しているとバカだと思われやしないだろうかとビビってたりね。
他人には「ピントっぱずれと、革新的な考えは紙一重だよ」とか「アタマに何か浮かんでるのに、言葉にならないときってあるよね。沈黙もひうとつの答えかもよ」みたいなエラそうなことを言ったことなんて幾度もあるクセに、ですよ。
他人に言うときには「オレは経験上、正しいと思ったことを言ってる」みたいな気になってるんですけどね。
でも、自分のなかで「それホントか?」と考え始めると、いまいち上手に説明できなかったりするのです。
おそらく、失敗したりなにも発言できなかったりを体験する場面では、「悔しさ」とか「恥ずかしさ」を伴うからなんでしょうね。
だからアタマでは「失敗こそが宝物だよ」って理解していても、その考えに至るまでに経験した感情が邪魔してくるんですよね。
他人には「恐れずに失敗しろ」って言えても、自分では失敗なんてしたくありませんもん。
自分に対して「失敗こそが宝物だよ」って言葉を使うときって、言い訳だったり、慰めの場面に限られちゃいますよね…。
人は何かを始めれば、失敗するものなのですよ
反対に言うと、望んでいないのに得られる経験だからこそ「宝物」なんでしょうね。
だって、何かを始めるときに「さあ、失敗するぞ」なんて思ってる人なんていないんですもん。
その昔、僕がバレーボール部で毎日練習していたころに「スパイク。ネットに引っ掛けてみろ」「エンドラインの向こうにアウトボール打ってみろ」なんてことをやらされたこともありましたけど、これは「失敗しようという意図を持って、失敗する」という練習なので「成功」なのですよ。
職業人になったり自分の事業を創り始めると、やたらと失敗したり間違ったりするものなのですよ。
そのレベルはいろいろで、借金苦になって自殺を考えるような深刻なものから、「これだ」と思って提案したプランが「はぁ?」って反応だったり…。
それでも「さあ、失敗するぞ」なんて思いながらことを始める人なんて、ひとりもいないのです。
むしろ「失敗せずに済みますように」なんてことばかりを考えているのに、それでもしてしまうものなのですよね。
当然そこからまた「あ〜でもない、こ〜でもない」と言いながら、頭をひねりつつ手足を動かし続けるのですよ。
そのうちなんとなく上手にできるようになって、だんだんと「あの失敗があったから」と思えるようになって来るんですよね。
だから「失敗こそが宝物だよ」は、間違っていないのですよ。
失敗を経験せずに、順風満帆で予定通りに行った計画からは生まれて来ないものなのですからね。
でも、自分でそれをまた体験したいか? と問われれば「まっぴらごめん」なのです。
次にまたなにかを始めるときにもきっと「どうやれば失敗せずに済むか」ばかりを用意周到に考えてから始めると思いますしね。
「これが正解です」なんて、ありゃしないのです
他人に対して「失敗は宝物だよ」とか「ミスってもオッケー。その先が重要なんだから」みたいな言葉を投げかけるのって、どこかしらに「他人の失敗を笑わない自分でいたい」という気持ちがあるからなんじゃないのかな? などと思っています。
それは「自分が失敗したときに笑いものになりたくない」ってことの裏返しでもあるんでしょうけどね…。
みんな、ある程度のオッサン・オバサンになってくると「これが正解です」とか「よい答え方です」とか、そんなのないことのほうが多いなんて分かってるのですよ。
だから、何を言ってもいいし、何をやってもいいのです。
そして大抵のことは失敗するし、それが当たり前なのです。
場合によっては、誰かに何かを訊ねられたり、知識を持ってなきゃマズい場面に出くわしたときにはじめて「あれ? 何も知らないし、何も考えたことないぞ」を認識する場面だって数多あるのです。
そんなときは「知りません」「考えたことありません」でもいいし、沈黙したって構わないのですよ。
あなたがものすごく真摯に取り組んでいることに対して、他人がまったくの無関心だったら「どうしてそんなに無神経でいられるんだ? もっと想像力を持ってくださいよ」みたいなことを思いがちですよね。
でもこれ、反対も起こり得るのですよ。
他人が言う「こんなに大変なことが起こっています」に対して、自分は「どっちでもよくない?」という感想しか持っていなかったりね。
むしろ、そっちのほうが多くありゃしませんかね。
大抵の場合は、ピントの外れた返答をしたり「わかんない」って答えざるを得ないのですよ。
それだと会話にならないから、なんとなく「僕はこう思いますかねえ」みたいな会話を即席で作りますけどね。
当然その中には「間違ったことを言いたくない」とか「なんとか沈黙は避けたい」みたいな要素も含まれますよね。
野球でピッチャーがフォアボールを恐れて、ストライクゾーンに球威も変化も抑えたボールを投げることを「置きに行く」なんていいますが、そんな感じの仕立てになります。
まあ、ほんのりとした失敗をしているわけです。
それを後から「あの人、こんなこと言ったんだよ。バカじゃない?」とか「何もわかってないじゃん、ダッサ」などと言っても仕方ないのです。
それは往々にして、あなたが関心を持っていることに興味を持っていなくて、テキトーに話を合わせてくれた結果だったりするのですよ。
僕はこの歳(50代半ば)になってようやく、なんとなく分かったふりしながら話を合わせたり、持ち合わせの知識を動員して正解っぽい答えを作り出すよりも「わかんないから、黙って聞いてるわ」と、会話に加わらない選択をするほうが良さそうだなあと思い始めています。
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