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すぐ否定する人が嫌い、なんだけれども

2020.11.04

こんにちは、萩ドットライフ()です。

人がやろうとしていることを、すぐ否定する人、ケチばっかつけて来る人が嫌いです。だいたいみんなそうですよね。でもこれ、自分自身に対してもやってしまうのですよね。たぶん、それは「答え合わせを先延ばししたいから」なのだろうと思うのです。

考え中が、いちばん楽しいのです

なにかをやろうとしているときって「あんなことしたい、こんなことしたい」って、考え中のときがいちばん楽しかったりしますよね。

やり始めちゃうと「あれ、なんか違うぞ」とか「こんなはずじゃなかった」みたいな失敗成分が次から次へと目の前に現れてきて、それらの対応にちょっとメンド臭くなってきますもんね。

思い通りにすんなりとことが運んだとしても「ちょっと簡単すぎたな。もうちょっと難易度高いところを狙うべきだったかな?」みたいなことを思い始めたりね。

ホントは、いつまでもグズグズと行動に移さずに、やるやる言い続けていたほうが希望に包まれていて、幸せな感じでいられるような気もするんですよね。

そこから先は、個人の性格みたいなものが影響して来るんでしょうけれどもね。

ずっと「やるやる」言いながら希望に包まれっぱなしで何もしないまま、快楽を得続けられる人もいるでしょうし、何も始めようとしない自分に苛立ちを感じてストレスになっちゃう人もいるでしょう。

たぶん、そのあいだのバランスを取ろうとするの「否定」なんじゃないでしょうかね?

「まだまだ機が熟してないぞ」とか「そのプラン、スカスカで魅力に欠けるよ」「まだまだ考え続けるべきなんだ」と否定することで、「始める」を先延ばしにできるんですよね。

希望に包まれている時間を損なわずにいられる方法なのです。

だれだって希望を失いたくありませんもんね。
だから、何ごとも「否定」から入る人の気持がわからなくもありませんし、僕自身「いま先延ばしのフェーズにいるな」なんてことに気づくことも多々あります。

「ちょっと否定してみる」って、よくありますよね

僕は「古民家で暮らしながら、DIYで住みやすい家に作り変えたい」という目的で、この山口県萩市に古い築56年の家を買って移住してきたのですよ。
(参考:古民家再生をDIYでやりたい

それがいま、先日投稿した「何もしてないってわけじゃないけど、何かしている感じもしない…」でも書いたように、

入居したばかりの頃は「こんな断熱の効いてない、古くさい家になんか住めない。早くDIY始めなきゃ」なんて思っていたものですが、ちょうど暮らしやすい気候になってきたり、古臭い感じも「味だなあ」なんて感じ始めたりしてきていて「ワンシーズンくらい、このまま使い続けてみるかな」なんて気になっているのです。

なんて気分になっちゃってるんですよね。
どこかしらで「思いつきでリノベーション始めちゃダメだ」ってブレーキがかかっちゃってるんでしょうね。

さほど急ぐ必要もないので、「ま、いいか」って感じでいますけどね。

なんとなく「南北に抜ける風が気持ちいいから、それを活かす計画を練り直そう」とか「前庭・裏庭、両方にウッドデッキ作る意味ないな」みたいなことを、あれやこれやと考え直すのが楽しいフェーズに入っちゃってるんですよ。

この状態が長々と続くと「オレ、やるやる言いながら何もやらねえじゃん」と、ストレスになってくるんでしょうけどね。

他人の計画でも、自分がやろうとしていること、チームで取り組んでいること、なんでもいいのですが、考えてる最中どこかしらで「ちょっと否定してみる」ってことってありますよね。

他人のことを否定すると「大きなお世話だ」ってことになっちゃうし、自分のことならブレーキ踏んだ感じになってしまいますね。

「ちょっと立ち止まってみる」なんて、上手い言い回しもあったりするんですけどね…。

それでも、すぐ否定する人は嫌いですけどね

僕は、自分がなにかしらのアイデアを出すわけでも、他の人のアイデア同士を結びつける役割を担うわけでもなく、延々と否定し続けるような人が嫌いです。

できれば、そんな人に自分の計画を話したくないし、みんなでなにかやるときのチーム内にいて欲しくありません。

しかしながら、じゃあ僕自身がなんでもなんでも肯定的に、バンバン前に突き進むことができているか? というと、そんなわけはないのですよ。

前項でも述べたように、ところどころでブレーキを踏んでしまうのです。ちょいちょい否定してしまうのですよね。

どこかしらで「答え合わせを先延ばしにして、希望に包まれていたい」なんて意識を持ってるんでしょうね。

「自分の計画が上手く行かなかったり、変な結果になってしまうことで、傷つきたくない」みたいなことも頭の中にあったりしますね。

ならば、早めに「失敗」って答えを出して、次の修正案を出して、再考に再考を重ねて、もう一度トライする機会を作れば「また希望を得られる」なんてこと、わかっちゃいるんですけどね。

老いのせいなのかなんなのか「そっか、否定は答えの先延ばしに使えるのか」なんてことを思いついちゃったものだから「否定することを、肯定する」なんて、ワケのわからない状態になっています。

これはこれで「そっか、そういうことだったのか」と新しい気付きがちょっと嬉しかったりもするんですけどね。

でも、何かにつけすぐ否定したり、ケチばかりつけてくる人を「そっか、この人はこの会話を楽しんでいるのか」と捉えられるかといえば、そんなわきゃありませんけどね。

でも、希望をコントロールするという意味で、上手に「否定」成分を混ぜ込むことは、なかなかいいのかもね? なんてことを今朝は考えています。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。