だまって「わかってくれる」感を出してくれると、嬉しいです
2020.11.18
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。人に求める役割として、知識量とか技術力よりも、コミュニケーションするときの心地よさみたいなものの方が重要視されつつあるような気がしています。その中でも「わかってくれる」って要素の大切さがどんどん増しているように思い始めているのです。
メンドくさい客
えーっと、見出しの「メンドくさい客」って、僕のことです。
とくにお店の人に対して横柄な態度を取るとか「あーしろ、こーしろ」も言わないし、やたらとケチつけて値引きを要求したりもしません。
当然「オレは客なんだから偉いんだぞ」みたいな素振りを見せようはずもありません。
むしろ「あ、それでいいすよ」「はいどうも、ありがとうございます」と、表面(オモテヅラ)は、とてもいい客に映ってるんじゃないでしょうかね。
ただ「いつもご利用ありがとうございます」から始まって、
「○○さん、いつものヤツっすよね」
「最近○○さん来られなかったっすね、お忙しいんですか?」
「今日あたり○○さん来るんじゃない? って、スタッフ同士で話してたとこなんすよ」
みたいに、ぐんぐんと常連感をアップデートされて、距離を詰めて来られるのが苦手なんですよね。
それやられちゃうと足が遠のいて、いつの間にか行かなくなっちゃうんです。
できればずっと、その他大勢として扱われ続けたいのです。
そのくせ、そのお店で以前買ったものとか、頼んで喜んだサービスとかを覚えていてくれて、先方から「今日はこんなのありますけどいかがですか?」とか「この季節、これがおすすめなんすよ」みたいに「お、わかってくれてるじゃん」みたいな感じで接してくれると、すごく嬉しいのです。
無職になったいま感じるのは、それって、自分が職業人だったころに思ってた「クライアントと、こう接したい」の裏返しなんじゃないかな? という気がしているのです。
「僕は○○さん(クライアントのエラい人)チルドレンっすから」みたいな阿(おもね)り方は嫌いだったし、そもそも似合っていないし…。
他のスタッフに対して「僕、○○さん(クライアントとか代理店の担当者)の案件○回目なんでコツ掴んでます。任せてください」みたいな感じも、ちょっと痒い感じがするんですよね。
そのくせ、初回ミーティングでヒアリングしたことを「この担当者なら、こういう感じが好きなんだろうな」みたいなものをできるだけ完成形に近い形にして、素早くお見せする、そしてそれ自体を会話の素材にしながら、詰めていく、みたいな感じが好きだったのですよ。
まあ、それは馴染みのある座組のときに限られるんですけどね。
始めて組む代理店とか制作会社が、ディレクターやら、なんちゃらデザイナーみたいな人を多く投入してきた場合は、そういうわけにもいきませんでしたね…。
「できる限り」ってところです。
わかりあえた感って大事ですよね
僕は言外に「わかってますよ、こういうことですよね」を伝えたいし、先方にも「おっ、わかってるじゃん」と思ってもらいたいのですよ。
ややこしきことに、なぜか「言外」が前提なんですよね。
言葉にした時点で、心のなかでうなづき合うような関係が崩壊してしまうような気がしてしまうのです。
前項で述べたように、自分が「常連感出されるとツラい」性格なのが影響しているのかもしれません。
とはいえ「○○さん担当案件なら、自分っすよね」みたいなこと言ってる人も多いので、別に言葉にしても構わないのでしょうが、僕はちょっとだけこそばゆさを感じるから、そうしないだけなのです。
わかり合えると、相手の希望をわかった上で否定することもありになるんですよね。
「おっしゃることはわかるんですが、このパターンもちょっと見てもらえます? どうです?」みたいな感じ。
わりと「そうそう、こっちのほうがいいね」を引き出しやすくなったりするんですよね。
ダメなときも「いや、そうじゃない」ってこちらも先方もイヤミなく話のやりとりができるのですよ。
それを「わかり合う」って工程を端折っちゃうと「え? オレこんなの見たいって言ってないじゃん」みたいな悲しい結末になりがちですよね。
できれば、この「わかり合う」って工程の大切さをわかってる人どうしでチームを組みたいし、できれば「そこんとこ、オレにやらしてくんねえかな」と思うのです。
人によっては、デザイナーやライターがクライアント側と密なコミュニケーションをすることを快く思わない人もいたりしますから、新しい座組のときは、微妙な様子見期間がありますけどね。
「わかり合えた」が指名につながる
僕は、現在は無職になってダラケた生活をしていますが、50代半ばまでフリーのWebデザイナーを続けてこられて、しかも自分の意志で市場から離れることができたのって、長らく指名発注で案件に携わることができたからだと思うんですよね。
当時から、感じていたのが「わかり合う」という工程の大切さなのです。
おそらく、僕よりもデザインセンスのある人なんて山盛りいるでしょうし、僕よりもコーディングやらプログラミングの知識に長けた人なんて、毎年々々多くの人がフィールドに上がってくるのです。
(参考:何歳になってもコンプレックスを克服できない)
美術系・工学系どちらの教育もまともに受けていない僕が、運よくこの世界でメシを食い続けられたのって、クライアントにとって「わかってくれる」人のポジションを得ることができたからだと思うのですよね。
僕はもうデザインの仕事をしていないので「お客さん」に向き合うことはありません。
自分が客側の立場になることばかりなのです。
だからいっそう「そっか、この『わかってくれる』感って、自分が職業人時代に思っていたよりも重要だぞ」などと思い始めているのですよ。
もしかしたら「ビジネスの本質」みたいなものかもしれません。
先日投稿した「ときにはヒト経由で情報を仕入れないとな」とも通ずるんですけどね。
技術的なこととか選択肢とかって、いくらでもネットから仕入れられるんですよね。
でも「わかり合う」感じって、ヒト対ヒトじゃないと得られないものですからね。
いやネットですら、Amazonなんかを徘徊してて「お、これ進めてくるの。わかってんじゃん」なんてこともありますよね。
もう人に求められてる役割って、わかり合った上での「相槌」とか「心地よい裏切り」みたいなものかもしれませんね。
こう「替えがきかない」感じ。
昔から「余人をもって替えがたい」という言い方がありますが、その根拠が知識とか技術よりも、一緒にコミュニケーションするときの心地よさとか、考えを整理するときの「壁打ちの壁」になってくれるチカラ、会話のやりとりをしながら方向性を示してくれる感覚みたいなものになりつつあるのかなあ、と思うのです。
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