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価値基準を相手に合わせること

2020.11.19

こんにちは、萩ドットライフ()です。

自分の価値判断で他人を支配することも、他人のそれに合わせようと他人の顔色を伺いがちな人をみることも、あまり気分のいいものではありませんよね。でも、ときには他人の価値に合わせる立場に置かれてみるのも、考えるきっかけになっていいですよ。

判断基準を他人に持たれると、ツラいですよね

こどもの頃はよく「冷蔵庫の中にアイスがあるけど、食べてもいいか」「なにか小包が届いているけど、空けてもいいか」と、いちいち父母または祖母に許可を得ていたような気がします。

自分の本だとかおもちゃだと分かっているものに関しては、触ろうが別の部屋に持ち出そうが自由でした。
でも、外に持ち出すときには「○○ちゃんちに持っていっていいか」と訊ねていたような気がしますね。

たぶん、このころは「間違ったことをしたら怒られていた」からだろうと思います。

小学校高学年になろうが中学生になろうが「大人に怒られる」は続くのですが、さほど恐怖を感じなくなるので、いちいち自分の行動に対して許可を求めることはなくなってきますよね。

なにかして「結果、怒られる」は、50代半ばを超えた今でも続きますけどね。

僕の場合は、30代でフリーランスになったときに「上司や先輩から怒られる」はなくなりましたので、サラリーマンの方々に較べると仕事上の「怒られ」はぐんと減りました。

それは「怒られないが、いきなり仕事を奪われる」という立場になったことを意味するんですけどね。

わがままな恋人や同居人から、些細なことで「怒られる」は、永遠に続くのだろうし対処方法を考えるだけ無駄なので、ここでは触れません。

何をするにしても「これをしてもいいのかな?」「これをすると、誰かに怒られるんじゃないだろうか?」と思いながら過ごすのは、とてもツラいことです。
「相手に配慮する」ことはあっても、こちらのストレスになるほど他人を気にしなければならない環境って、ものすごく不快ですよね。

その不快の原因は「判断基準をすべて相手が持っている」ことにあるのだろうと思います。
自分が「良かれ」と思ってした行為を、あいてが「それダメ」と感じたらダメなのです。

たまに思い出すのは、アリかもね

このブログでも何度か書きましたが、僕は先月から自動車学校に通っていました。
「いました」と過去形なのは、先日、卒業検定に無事合格したからです。

あとは、試験場(山口県総合交通センター)で学科試験を受けて、それに合格すれば運転免許が手に入ります。
今日、このブログを投稿したら路線バスに乗って受験に行く予定です。

気が乗らなかったら、中止するかもしれませんけどね…。

なんせ自宅から試験場までが遠いのですよ。
自宅から自転車で5分程度(徒歩なら20分程度かな)のところにあるバスセンターから、1時間に1本程度しか出ていない路線バスに乗り、総合交通センター最寄りの新山口駅まで約90分、そこからさらに徒歩20分。

ほぼ2時間程度要するのです。

受付時間の関係で、さすがに新山口駅から試験場まではタクシーに乗る予定です。
歩いてもギリギリ間に合いそうなのですが、途中でトラブルに遭遇して遅刻したくありませんからね。

まあ、試験場の話は余談なので置いといて…。

技能検定にしろ学科試験にしろ「ここは自分の思い通りに答えを出しちゃマズいな」ということの連続なのです。
先日投稿した「教わる力(ちから)を持ち続けよう」でも若干似たようなことを書いていますので、よろしければご参考に。

とくに技能検定に関しては検定員が「どのように受け取ったのか」が全てなのです。
まあ、先方の方が専門家だしプロなので、僕が思う「これでいいでしょ」よりも、正しいジャッジをしてくれるに決まってるんですけどね。

正直、久々のストレスでした。

自分の価値判断で他人をコントロールすることって、まず第一に「良くないこと」ですよね。
とくに暴力や恫喝、人事や仕事の与奪などの恐怖をもって他人に自分の価値観を押し付けることは絶対にやってはならないことです。

他人の顔色を伺いつつ、ビクビクしながら行動している人を見るのも、あまり気分のいいもんじゃありませんよね。

ただこうして、いいオッサンになってから他者の価値基準に合わせて行動する経験をすると、そのへんのことを再認識できて、なかなかいいですよ。

「我を通し過ぎかな」くらいが丁度いいのです

僕は20年以上フリーランスのデザイナーをしていましたので、社内ヒエラルキー的な他人に対する配慮はしていませんでした。
けれども顧客(広告代理店だったり、クライアントだったり、見込み客だったり)に対して、必要以上に気を使いすぎた場面もあったんじゃないかな? と思っています。

本来ならば、決定権が僕の側にある場合(だって、そのためにキャスティングされてるんですからね)でも、先方にその権利があるものだと思いこんでしまったり、チーム内でそんな空気を醸成してしまうことによって、不必要なチェック工程を増やして、進行の妨げになったりとか…ね。

自分の判断が外れて「ふりだしにもどる」ことが怖いのですよね。

顧客をわがままにさせる結果に繋がるので、逆に良くないんですけどね。
進行中にはそんなことに思い当たる余裕もなく、ひたすら価値基準を相手に合わせようとした経験、何度かあります。

そもそも「ハズレてオッケー。それよりも自分で考えたとおりに動きたいんだ」「リカバリーは全力でするけど、配慮はしない」なんてことを考えてフリーランスになったにもかかわらず、実態はこのありさまでした。

それほどに失敗とか後戻りって、頭の中にイメージができてしまうと怖いものなのですよ。

無職になったいま、振り返って反省しても仕方ないのですが「もうちょっと、我を張るくらいで丁度よかったかもね」と思うのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。