上手いこと力が抜けてるなあ、良いなあ
2020.12.05
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。定期的に「いまのオレは上手いこと力が抜けてるなあ」という事が起こったり気づいたりしています。睡眠時間が長くなってきたのもそうなのですが、職業人時代のメシのタネだったデザインとの距離感がちょっと離れてきて、それがなかなか心地よいのです。
10時間寝て起きた朝に
何もかもがやりっぱなしでした。
家中の電気が点けっぱなしだったし、寝室のエアコンはいつもつけて寝るからいいんだけど、作業場のオイルヒーターもつけっぱなし。
洗濯機の中には洗った衣類がそのままになっていたし、机の上には飲みかけのコーヒーがそのまま。
ベッドに転がりながらYouTubeを観ながら「そろそろ洗濯が終わるな」と思ったところまで覚えてるのですよ。
「部屋干しして、机まわり片付けて、21時頃に寝ようかな」と思いながらデパスを口に放り込んで水を飲んだのが、たぶん20時半くらいだったんじゃないでしょうかね。
気づいたら朝6時半でした。
その間、1度もトイレにも起きずにノンストップで眠り続けたことになります。
なんだか「ゆっくり寝られてヨカッタ」と「ちょっと寝疲れしちゃったな、ボーッとしてる」が半々の変な感じです。
無職になって、そして特に萩に移住してきてから、睡眠の質が向上してきているのですよ。
(参考:原因不明の好調)
簡単に言うと、寝付きが良くなってるし、一度寝たらそのまま7〜8時間寝られる日が増えています。
寝付きに関しては、何年も前から「デパス(エチゾラム)」という睡眠導入剤に頼っているのですが、飲むことを忘れたままポテっと寝ていることも多々あります。
もちろん、2・3時間で目が覚め、そのまま寝付けずに朝を迎える日もあるのですが、東京時代よりも、職業人時代よりも減っているように感じます。
この「睡眠の質が向上した」ってだけでも、無職になって田舎に移住するという自分の行動が間違っていなかったことは明らかだと感じています。
おそらく、何かをがんばることから解放されたからなんじゃないでしょうかね。
がんばることが好きだったんですね
おそらく僕は、がんばることが好きでした。
デザインの仕事に取り組んでいるときでも、ちょっとした雑用をするときでも、いつも「もうちょっといい感じに仕上げてみよう」みたいな気持ちが働いてしまうんですね。
過去に「何歳になってもコンプレックスを克服できない」という記事でも書いたように、どうしても「この仕事をするための教育を、オレは受けていない」ということが負い目になっていましたので、いつも「オレはもうちょっとがんばらなきゃ」と思っていたし「時間をかけること」「常時デザインについて考え続けること」でしか、克服できないと思っていたんですよね。
どこかしらで「がんばること」自体が好きになっていたのですよ。
目的化していたのです。
いま振り返ると「それはちょっと違うんじゃない?」と思えるのですが、その当時はそれで仕事が切れることがなかったし、そこそこ良好な評判も頂いていたので「うん、これで間違いない」なんて感じていましたね。
その結果、あまり健康的とはいえない生活をすることになって、体調を崩す羽目にも陥ったんですけどね。
(参考:「セルフブラック」の功罪)
その辺は、そうやって少々無理をしてがんばったから、いっぱい仕事をもらえて50代半ばにしてセミリタイアを決断できるに値する金融資産を作ることができたんだ、とも言えるし。
結局、無理が祟(たた)って50代にして焼きが回ってしまった。無駄ながんばりが職業人生を縮めることになったんじゃない? お金が貯まってたのは単なるラッキーだよ、とも言えるのですよね。
この辺は「塞翁が馬」ですね。
どちらにせよ、無職になることを決めて以降、がんばることをしなくて良くなったのですよ。
職業人時代だって、僕ががんばることを監視していたのって、自分だけだったんですけどね…。
他人が監視していた僕に関することって、成果物の出来/不出来だけだったんですから。
デザインされていないものから受ける心地よさ
いま「上手く力(チカラ)が抜けてるなあ」って思います。
冒頭で述べた「睡眠の質が改善されてる」もそうなのですが、なんとなくものの見かた感じ方が変わってきた感じがします。
こないだフと気づいたのは、モノをいちいち「デザインの手が加わっているもの」として見なくなってることですね。
当然、ちゃんとデザインされてたり、「こういう処理、オレもやりそうだな」みたいな仕上がりになってるものに目が行きがちなのは変わっていないのです。
しかし「この要素をここに配置した意図は…」とか「こうやって視線を誘導してるのね」「そっか、ここでアクション欲しいのか」みたいな解析をすることに一切関心がなくなってるんですね。
完全にユーザー目線でものごとを観たり使ったりしています。
「ああオレ、もうプロじゃないな。デザインに関してわかったふうなこと言うの、やめよう」と感じています。
これは僕が長らく、デザイナーという職業でメシを食ってきたからなんでしょうけど、自分のアタマから「デザイン」というものが剥がれ落ちていく感覚って、なかなか心地いいですよ。
この8月から山口県萩市の街外れで暮らしています。
いつも僕がいる部屋の窓から見えるのは、山だったり竹やぶ・雑木林だったり、ランニングに出かけると、川だったり海だったりです。
ただ見えるだけじゃなくて、匂いとか重さとか視界の幅とか、いろんな情報を含んでるんですよね。
(参考:田舎暮らしも、なかなか情報量が多い)
このデザイン「されていない」ものに囲まれて、いろんなことを感じたり、影響されたりするのって、とても心地いいのですよ。
かつて、がんばっていた頃には、こんなことを感じる余裕がありませんでしたね。
いま感じているような、デザインされていないものから受ける心地よさを職業人時代に感じていたら、もっといいデザイナーになれただろうし、もっと職業人寿命も伸びたかもしれません。
だからといって「もういっちょ、復帰してみるか」という気分にはなっていません。
いまの「上手いこと力が抜けてるなあ」という心地よさを、失いたくないのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。