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人がいるってことは、表情があるってことなんだけどなあ

2020.12.29

最終更新日:2020年12月30日

こんにちは、萩ドットライフ()です。

つくづく「顔(=表情)って大切だなあ」と思っています。さほど関わりを持つことのない、コンビニレジの人や、同じ時刻同じ場所で見かけるだけの人であっても、顔を知らない、表情が感じられないのって、ものすごいストレスだと感じているのです。

なんとなくの、馴染みの人

萩市民になって今の家で暮らしはじめて、4ヶ月が経とうとしています。
越してきた当初と比べて、散歩コースやランニングコースを探したり、いろんなスーパーに行ってみることをしなくなりました。

寒くなってきたので、もう最近は散歩には行っていません。
たぶん春になると、また再開するんだろうと思います。

朝のランニングコースは、ほぼ固定されました。
その日の体調や気分によって、微妙に変更するバリエーションは数パターンありますけどね。

先日投稿した「田舎の朝ラン事情。日の出時刻の影響大ですよ」でも触れたように、日の出時刻が変わるにつれて、走り初めの時刻も変わるのですが、まあ数十分程度の違いで、だいたい似たような時間に走っています。

なので、すれ違う人や見かける人も決まってくるんですよね。

「いつも、この道ですれ違うランナー、ウェアいっぱい持ってるな」とか「このガソリンスタンド、いつもこの人が一番に出勤して、ひとりで開店準備を始めるんだな」みたいな感じです。

食料品や日用品を買うスーパーは、2点に限定されています。
だいたい「肉うどんを食べたいときはA点」「卵を買いたいときはB店」みたいな分け方をしています。

スーパーの中でも、いつも見かける店員の行動様式が分かってきて「このおっちゃん、前から客が近寄ってきても、商品カートを避けようとせずに突っ込んでくるんだよな」とか「このお姉さん、手際がいいから一番レジの進みがスムーズなんだよな」などなど、だいぶん身のこなし方が上達してきているのですよ。

ひとことも話したこともなかったり、「お願いします」「ありがとうございます」くらいの事務的な言葉しか交わしたことがないけれども、なんとなく「馴染みの人」が増えつつあります。

最近、車で移動しはじめたので、行動範囲が変わって、訪れる店もこれから変わるかもしれませんけどね。
(参考:四駆の軽トラがやってきた

なぜかしっくり来ないのは

かつて、東京との二拠点生活をしていた頃と比べると、格段に「自分の街」感は強まってきています。

でも、いまいちしっくり来ないのですよ。
もちろんコロナ禍のせいで、せっかく移住してきたのに会いたい人に会えなかったり、「帰ってきたよ、飲もうか」という連絡すらできてなかったり、少し前まで僕の移動手段が自転車だったもので、移動に制限があって行きたいところに行けなかったりと、いろんな理由はあります。

このことについて、ぼんやりと考えていて、ふと思いついたのが「人の顔が見えないからなんじゃないか?」ということなのですよ。

前項で触れた、朝よくすれ違うランナーを除き、ガソリンスタンドの開店準備をしているあんちゃんも、手際のいいレジ係のお姉さんも、一度も顔を見たことがないのですよ。

このご時世、必ずマスクをしていますからね。

顔なんて知らなくても、体つきや身のこなし、目のまわりだけで判別はできますから、何かが困るわけでもないんですけどね…。

そうやって考えてみると、10月の初めから11月半ばまで通っていた自動車学校で関わった人々の顔も、ほぼ見ていません。
なんとなくぼんやりとした、全体の感じでしか覚えてないんですよね。
(参考:50代半ばにして、自動車運転免許を取りました

いや、だからといってどうってことはないんですけどね…。

なんとなく「これでいいんだっけ?」みたいなことを考えるのですよ。

これまで挙げたような「スーパーの店員」「自動車学校の教官」「いつもこの時間にここにいる人」みたいな、さほど人生が交わるわけでもない人は、このままでも問題ないのかもしれませんけどね。

表情って、大切だなあ

この先、ずっと人々がマスクをしたままの生活をするのが当たり前になってしまうと、なかなか新しい人間関係を作るのが難しくなるような気がするんですよね。

「顔って大切だよなあ」と思うのです。

すれ違い際に挨拶をするだけの人、たまに天気の話をする程度の人、着ているものや持ち物を褒め合う人、街の話や行きつけのお店の話をする人、ちょっとずつコミュニケーションを増やしていく過程で「顔(=表情)」って重要ですよね。

こちらから声をかけたときに、ちょっと表情を緩めてくれる人にはもう少し踏み込んだ会話を求めてみようと言う気になるし、なんとなく表情にこわばりを感じる人には「これ以上踏み込むのはやめよう」という気になります。

そのあたりの判断が、マスクで口元が隠れていると難しいのですよ。

いまのところ、萩に移住してきてマスクをしてない人と出会ったのは、秋ごろに催した高校時代の同級生との飲み会と、ゴミ出しのときに出会う近隣の人々くらいのものです。

うちの近所は人なんか歩いちゃいませんから、みんなマスクなんかしていないんですよね。
なので、反対に人と会っても、挨拶はしても世間話には発展しないんですよね。

でも、商業施設など建物内に入ると100%の人がマスクをつけてますね。

そこに人がいるってことは、その人数分の表情があるってことなんですよね。
その表情をマスクによって奪われていることに、非常に違和感を覚えるのです、ストレスなのです。

「早くマスク要らなくならないかなあ」と思っています。

でも、しばらくはこの生活が続くんでしょうね。

「ワクチンもできたし、もう収束した。前の生活に戻れるよ」ってことになっても、建物の管理者はリスクを恐れて「マスクをご着用の上、入場願います」のポスターを撤去しないでしょうし、建物内でマスクを求められる以上「もう大丈夫」って印象を得られませんからね。

統計上の数値は収束を示しても、人々が「また次の感染症がやってくるかもしれない」と恐れ続ける以上、もと通りにはならないように思うのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。