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マスク・手洗い・距離の確保。礼儀みたいなもんですよね

2021.01.04

こんにちは、萩ドットライフ()です。

「マスク・手洗い・距離の確保」が新しく礼儀の中に加わったような気がしています。考え方はいろいろあれど「私は決して、怪しいものではありません」と周囲に知らせるための行動ですよね。同調圧力なんですけれど、防疫ってそういうもんですよね。

決して怪しいものではありません

僕はおそらく、他人よりも多めに挨拶をするほうだと思います。
東京でマンション暮らしをしていたときもそうですし、萩に移住してきて、通りで人とすれ違うときでもそうです。

とくに回数を数えたりして比較したわけじゃありませんけどね、なんとなくです。

とはいえ、どういう場所で、どういうタイミングで会った人に挨拶するのかは、自分でも決めきれていません、なかなか曖昧です。

たとえば東京でマンション暮らしをしているとき、マンションの敷地内ならばすれ違う人すべてにしていましたね。
近所やスーパー、駅ならば、同じマンションに住んでる人だ、とか、よく顔を見る人だってときに会釈をするくらいでしょうか。

いま住んでいる萩では、大通りに出るまでの路地や家の近辺が、東京時代のマンション内に相当する感覚でしょうかね。
でも、田舎は徒歩で移動する人が少ないので、あまり頻繁に挨拶することもないんですけどね。

朝ラン中は、すれ違う人、追い抜く人には挨拶をしています。
これは東京時代もそうだったのですが、早朝の場合だけですね。登校・通学時間になって人が増えてくると、きりがなくなっちゃいますからね。

まあ、気が向いて、不自然じゃなかったら「こんにちは」って会釈しながら言ってる感じでしょうか。
考え事をしていて挨拶せずにすれ違ったとき、後戻りしてまで挨拶するなんてことはありません。

街なかや人通りの多い道だと先方に「知り合いだっけ?」と思わせてしまいそうなので、控えるようになりますね。

先方が挨拶を返してくれたかどうかは、まるっきり気にしていません。
自分の習慣として、僕が勝手にやってるようなものですからね。

こんなにも挨拶をするようになったきっかけって、30代半ばにフリーランスになったことだろうと思っています。
僕は、昭和の体育会出身者なので、ある意味「ものすごく挨拶する人」ではあったのですが、それとは少し趣が変わって、関係者同士ではない場面での挨拶のことですね。

道ですれ違う人や、エレベーターで一緒になった人、スーパーのレジで前後になった人とかでしょうかね。

僕はフリーランスになったことをきっかけに「昼間ブラブラしてる若いもん」になったのですよ。
そして今、そのまま「昼間ブラブラしてるオッサン」になってるだけなのです。

ドラマなんかで、急に現れた人が「決して怪しいものではありません」なんてセリフを言う場面がありますよね。
現実社会でそんな人に出会ったこと、一度もありませんけどね。

その「怪しいもの」だと思われたくなかったのですよ。
そのときは「怪しいものだと思われたくないから、挨拶をするようにしよう」なんて考えた覚えはありませんが、あとから考えてみるとそうなのです。

マンション内の共用部分ですれ違う人や、スーパーで出会う人に「この人、何してる人なんだろう? 怪しいな」という目で見られてるような気がしてたんですよね。

当時はリモートワーカーなんていませんでしたし、フリーランスになりたての頃は、自分でも「会社に行かない自分」に違和感ありましたからね。
自分で自分のことを「怪しいもの」だと思ってたんですよね。

「怪しいもの」の解釈がちょっと変わったかもですね

ところで「怪しいもの」ってなんなんでしょうね?
泥棒に入るための下見としてターゲットを物色しながら歩いている人とか、まともな職につかずに犯罪に手を染めながら暮らしている人、とかのことでしょうね。

それに加えて、どうやって所得を得ているのかよくわかない人も「怪しい」カテゴリに入ってくるのだと思っています。

そもそも、コミュニティの安全を守るために、不審な人をしっかりと怪しむことは正しいことなのですよ。

なので、怪しまれた側が被害者ヅラするわけにはいかないのです。
どうにかして「決して、怪しいものではありません」ということを伝える責任は、こちら側にあるのだと思うのですよね。

だから「僕は、こんなにもニコニコと挨拶をする人間ですよ」「ホントに怪しい人が、自分を印象付けようとしますか?」というアピールをするようになったのだし、それが習慣化されているのです。

ただ不幸なことに、この1年で「怪しい人」の概念に「感染症に罹っている可能性のある人」が加わったような気がしますね。

たとえば「感染者数が多い地域から移動してきた人」とか「主義主張によって感染症対策を拒む人」「(ただの風邪だとしても)咳き込みがちな人」「体調悪そうにしている人」などなどですね。

なかには「昔っから喘息だよ」とか「他の事情でマスク付けられないんだよ」みたいな理不尽に「怪しい人」カテゴリに入れられちゃう人も出てきますよね。

マスクをして、建物の入口で手を消毒していたとしても、どうしてもクシャミをしたくなって我慢しきれないことってありますよね。
「ックション!」って言っちゃたあとに、辺りを見回したりね。

こっちを見ている人がいたら会釈してみたりして「決して、怪しいものではありません」をアピールすることになりますよね。

新しい礼儀

挨拶とか言葉遣いに代表される、礼儀って「決して、怪しいものではありません」の自己申告システムなのだと思うのですよ。

当然、自己申告だけで相手に受け入れられるものではなくて、日頃の行いや言動で少しずつ「怪しいものでない」ことが伝わっていくのですが、まずは最初の入口としての礼儀って大切ですよね。

年賀状出さないし、お中元もお歳暮も送らない僕がいうのもアレですけどね…。

そこに「マスク」「手洗い」「距離の確保」が加わった感じがしますね。
それを実行していない人は「無礼」なのですよ。

「私は感染症を予防しようとしています。怪しいものではないのです」という意思を行動で示さなければならないのですよ。

いろんな考え方があることは、なんとなく把握しています。
「コロナはただの風邪だ」論もありますしね。

「知らない人に頭を下げて『こんにちは』っていうことになんの意味がある?」「すれ違いざま、ひと言ふた言、天気の話をするのって何?」って人がいるのと同じように「マスクなんてしなくても、伝染らないでしょ。だれも話してないんだもん」とか「手なんて、さっき洗ったばっかだよ」なんて人もいて当然なんでしょうね。

同調圧力っちゃあ同調圧力なんでしょうが、防疫とか治安維持って、そういうもんですからね。
ただ、うっかり礼儀から外れてしまった人や、意思を持ってそうではない振る舞いをしている人を、殊更攻撃対象にしてしまうのも、どうかと思うのです。

ただ、やっかいなのは「マスク」「手洗い」「距離の確保」をしっかりとやった上でも、熱もなく咳も出ず、まったくの無症状のまま感染を広げていくケースがあるってことですよね。

自他ともに「怪しいものではない」と思っていたとしても、知らないうちに新型コロナウイルスに感染していたら、もうどうしようもないんですよね。
だからずっと、この疑心暗鬼な状況は続くのですよ。

「マスク」「手洗い」「距離の確保」が新しい礼儀だとして、これがいつまで続くことやら、とても気になりますよね。

「コロナが去っても、また次の感染症が…」と、膾(なます)を吹き続けるのか?
「ああ、やっと元の生活に戻ることができる」ということになるのか?

なんとなく僕は、コロナ禍が収束して、陽性者が激減して「怖い」「危険だ」と言う人の数が減るにつれて、その人たちの反対に声は大きくなり続けるような気がしているのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。