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引退できる人は、したほうがいいんじゃないかな

2021.01.08

こんにちは、萩ドットライフ()です。

自分が年を取るにつれて、自分が属するコミュニティも年齢が上がってきますよね。「オレは若いヤツとも話が合う」と思っている「若いヤツ」が40代だったりね。人生のどこかで、積極的に環境を撹拌して流動させたほうがいいように思っているのです。

40代半ばの経営者、若い?

「彼もまだ若いですからねえ」
 『いくつくらい?』
「40代半ばって感じでしょうかねえ」
 『……』

親交のある経営者から電話があり、新しく展開するビジネスの相談を受けていました。

相談と言っても、僕はすでにセミリタイア人なので、なにか新しい知識を持っているわけでもなく、その方のお手伝いができるわけでもなく、その方が自分の頭を整理するための壁打ちの壁の役目をしていただけなのですけどね。

その会話の中で提携先の経営者を指して「彼もまだ若いから」という言葉が何度か出てきたのです。
それが冒頭のやり取りです。

文脈としては「(だから)自分の言った通りに動いてくれない」とか「(だから)簡単な事務処理を後回しにしてしまう」みたいなことだったように覚えています。

総じて「まだ未熟なんです」という意味を含ませて使っていると感じました。

僕もその経営者も50代なので、40代の方を「若い」と呼ぶことになんら不思議もありません。

たとえば「40代ならまだまだ先、長いじゃないですか。やりたいこと全部できますよ」みたいな文脈で「若い」を使うのならば、ありだと思いますし、僕もそんなことを誰かに言ったことがあるような気がします。

でも「人として未熟」みたいな使い方はふさわしくないんじゃないのかな? と思いながら聞いていたのです。

その辺りの感覚は「人によりけり」としか言えないので、話を遮ってまで「40代ならば決して若いとは言えないだろう」と議論を起こすような場面でもなかったので、そのまま話を流しました。

僕も、その話し相手の経営者も、40代半ばのときには「今が旬だ」みたいな顔をして仕事をしていたはずなんですけどね…。

そういう話を聞きながら僕は「オレの周り、オッサン・オバサンばかりになっちゃってるな」と感じたのです。
同時に「これがずっと続くんだろうな」とも思ったのですよ。

おそらく10年後には、60代ばかりのコミュニティに所属して「まだ50代…、若いねえ」と言っているのだろうし、その10年後には「まだ60代…」と。
きりがないんですよね。

そりゃ「75歳のオレ、いまが旬」みたい人はとても素敵だと感じるのですが、年若の方を未熟もの扱いし続けるのは違うと思うんですよね。

オッサンの側から場所を空けるのがいいよね

僕は以前から、オッサン・オバサンの価値って急速に低下していると思っているのですよ。

会社内・業界内で知ってる人の数が多かったり、同じ釜のメシを食う経験を何度も繰り返してきたり、困難な決定事項を絶妙の根回しで成立させたり、みたいなのことの重要性が相対的に下がっているからなのですよね。

それよりも新技術の導入とか、思考様式の転換、ひとりで仕事を推進する力、などの重要度が高まっているように思うのです。
なので、オッサンの業界経験よりも、若い人の学習力や行動力の方が、資源としての価値が高いのです。

このあたりについては、以前投稿した「○歳定年説とか、限界説とか」という記事のなかで、なんとなく触れています。

僕自身が、ずっとやってきた仕事を手放してセミリタイア人になりましたので、その行動を正当化するという意味もありますが、ある程度の年齢になったら「もういい、やめた。あとは若い連中で回して」って場面がどこかで必要だと思うのですよ。

それは、オッサン・オバサンの側から言い出すほうがスムーズなのです。

そうしないと、若い人たちが腐っちゃうんですよね。

僕たちが若いころにも、年上の人たちがウザくて「あの人がいるから、自分にこの役目が回ってこない」とか「いちいち前に立ちふさがろうとするなよ」みたいなことを思っていましたよね。

そのころよりも人口の構成が変わって、オッサン・オバサンの壁はさらに厚くなっているのです。
存在価値が低下している(=焼きが回っている)にもかかわらず、です。

当然「そんなものは、若いものが乗り越えてくれりゃいいんだ」が正論なんですけどね。
それ以前に構造の問題があったりしますからね…。

そしてそれは、オッサン・オバサンの側も「ヨシ、やめて清々した。はい次」という人生の転換点を作ることができるんですよね。
人生100年時代ですからね、55歳でやめて、しばらく休んで新しいことを始めても、75歳くらいまで、もうワンゲームできますからね。

流動性があったほうがいいのです

僕も「無職になったよ」「セミリタイアしたよ」なんてことを言いながら、どこかで「生涯現役」みたいな気持ちは持っています。

それは、いったん得た立場や役割を手放さずに、その場に居座るって感じじゃなくて「これまでとはちょっと視点を変えつつ、どこか居心地のいい場所を見つけて、そこで新しい自分の役割を担えればな」といった程度です。

「現実はそんな簡単じゃないよ」という意見もわかるのです。

今の立場を手放したら、自分の生活が立ち居かなくなる方もおられるでしょうし、道を譲るったって、譲るべき若い人が視界の中にひとりもいない場所や業界だってあるでしょう。

いま「セミリタイア人です」なんて言ってる僕だって、数年前までは「仕事大好き! 一生デザインに携わりたい」なんて考えてましたしね。

僕が言ってるのは、あくまでも「できる人は」なんですよね。
完全にやめなくても、ちょっと「引く」、ちょっと「退く」だけでもいいと思うのです。

まだまだ「この職業に就きたい人」や「自分に取って代わりたい人」がいるうちに、手放さないと、その産業自体が高齢化して、競争力を失って、衰退してしまうんですよね。
そうなると、若い人が近づいてくる産業ではなくなるから、高齢者がやり続けなくてはならなくなるのです。

いまの農業・漁業みたいなもんですよね。
最近は一次産業でイノベーションを目指す方々も増えてきているようですが、世代は隔絶してますよね。

メディアに登場するのは20代30代の若い農業従事者、でも実際に農村を歩くと目につくのは老人ばかりですもんね。

よきところで道を譲らないと、オッサン・オバサンも「次の生き方」のビジョンを描くことができないのですよ。
そりゃ「生涯、死ぬまでこの仕事。ひとすじ」という生き方もあるんでしょうし、否定はしませんけどね。

僕は、自分の人生も、自分の居場所も、流動性があったほうが楽しそうだなあ、と思うのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。