資格よりも肩書よりも、いいやつが最強
2021.01.17
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。こないだ運転免許を所得するまで、何の資格も持っていませんでした。しかも名刺に肩書を書いていなかったし、どんな機能を有している人間なのかをお伝えしようとしないまま、職業人生活を送っていたのです。無職になった今、ようやく気づきました。
そういや、履歴書ってあったな、と
50数年の人生で、履歴書って1枚しか書いてないように思います。
大学を卒業してから最初にお世話になった、サラリーマンとして通っていた唯一の会社。
最初は、社長が急に大学のゼミ室に来られて、いきなり教授を交えた面接だか雑談なんだかよくわからないティータイムがファーストコンタクト。
2回目は教授から「これから社長に挨拶に行ってこいよ。案内してくれるって」と、これまた急に言われて超カジュアルな服装のまま会社を訪問し。
そんな感じで就職先を決めてしまったものですから、履歴書の提出は入社後でした。
「出してよ。綴じとかなきゃアレだからさ」みたいな感じだったと記憶しています。
以降、転職活動もしていないし…。他に履歴書を求められる場面ってありましたっけ?
ときどきSNSとかで「履歴書」ってワードを目することもあるので「今も履歴書って存在するんだろうな」くらいの想像はつきますが、どんなフォーマットでやり取りされてるのかもさっぱりわかりません。
もう紙でやり取りしてなかったりするんでしょうかね?
昔は文房具店で買うものでしたよね。
たぶん、みんなあの様式だったんでしょうね。
それとも「この書式で提出してください」みたいなのもあったのかな? この辺の事情はまったく詳しくないのです。
なんで、履歴書について書き始めたかというと、このブログでもテーマにしたように僕は先日、人生二度目の自動車免許を取得しました。
(参考:50代半ばにして、自動車運転免許を取りました)
それからの連想で「むかし履歴書ってのがあって、そこに『資格』って項目があったぞ…。『自動車運転免許』って書いたことないけどな」などと思い出したのですよ。
一度目の自動車免許は、就職して、履歴書を提出した後に取りましたからね。
そう考えると僕はずっと、資格欄に書くことが何もないままの状態で職業人生活を送ってきたんですよね。
大学を卒業したばかりの頃は、中学と高校の教員免許(保健体育)も取得していたのですが、途中で更新制に変わったり、名称も当時と違ってるみたいで、当然すでに失効しちゃってます。
今は「自動車運転免許」って書けますけども、数ヶ月前に履歴書を書く機会があったならば、空欄のまま提出しなきゃいけなかったんですよね。
それはそれで、ちょっと楽しそうな気もするんですけどね。
自分の機能をアピールすることって、大切ですよね
僕は基本的には「資格がなくても、技術があればそれでいいんじゃない?」って思う派です。
もちろん資格によって独占業務がある場合は、話が違ってきますけどね。
人にとって、できることが増えるのは、とてもいいことですよね。
その目標に「資格」を置くことも悪いことじゃありません。
この先のどこかで履歴書を書く機会があれば、そこに記載できて、ちょっと機能的な人間っぽく振る舞うこともできますしね。
もしかすると、その資格と持っていることが、誰かから自分を求められる入り口になるかもしれません。
でも資格って、決してエキスパートの証じゃないんですよね。
いうなれば「入門しました」ってことなんですよね。
僕は今、軽トラの前後に初心者マークを付けて運転しています。
「ようやくひとりで公道を運転することを許された、ビギナーです」ってことを明示するように義務つけられているのです。
おそらく他の資格も同様だと思うのです。
たとえば第二種電気工事士の資格を取ったからといって、すぐに電気工事店を開業できるとは思いません。
どこかしらエキスパートが経営する会社に就職して訓練受けた上で一人前になり、中には自分の工事店を開業する人もいるんでしょうね。
医師でも弁護士でも資格を得た後に、実務家になるまでの訓練を受けることになるんですよね。
資格は「期待」の証明なのです。
「ここまで学習を継続し、試験をパスし、入門を認められました。これから精進して、こういう機能を持った人間となります」ということすよね。
いくら僕が前述のように「資格がなくても、技術があればそれでいいんじゃない?」と思っていても、「自分はこういう機能を持っている人間です」ということを伝えるためには「資格」ってわりと有効なものだと思うのです。
結局「いいやつ」が最強
そう考えていくと、僕は名刺に肩書も書いていなかったのですよ。
以前「名刺の肩書について」なんて記事を投稿してますね。
最近めっきり縁がなくなりましたが、僕が若かりしころ一度や二度ならず、名刺にビッシリと肩書を並べておられる方にお会いしたことがあります。
「○○の会・理事」「○○会社・相談役」とか、中には「〇〇会・発起人」なんて肩書を見たこともあります。
その当時は「そういう流派があるんだな」みたいな感じで受け止めていました。
裏面に事業内容をビッシリ書いたりする流派や、折りたたみ式を好む流派もありましたよね…。最近はどうなんだろ?
おそらくこれも履歴書に書く「資格」と似たようなもので「自分は社会において、こういう機能を担っています」ということをアピールされてたんでしょね。
もしかすると「それが話題になり、仕事につながった」みたいな成功体験をお持ちなのかもしれませんね。
そういう意味でも「資格」とか「肩書」は、決してバカにしてはならないものなのでしょうね。
職業人であることを辞め、無職になってようやく「資格も肩書も、あるに越したことはなかったな」なんてことを考えるようになっています。
ここからは、僕の勝手な感想なのですが…。
前述の通り、僕は「資格」も「肩書」もないまま、四半世紀にわたってフリーランスの職業人としてメシを食ってきました。
フリーランスなので「組織」もありません。
しかも、職業上必要とされる「教育」も受けていないし、その界隈の「人脈」もありませんでした。
(参考:何歳になってもコンプレックスを克服できない)
いろんなタイミングで、いろんな人々のサポートを受けながら「僕はこの業務にふさわしい機能を備えています」ということを証明する機会を与えられ、それを運よくパスできた上でのことだろうとは思います。
どういう境遇であれ、職業人としてメシを食うためには、みんなが乗り越えなければならない壁ですからね。
いわゆる「使えるヤツ」だと、他人に認めてもらわなければならないのですよ。
ただ、どこかしらのタイミングで人は「機能」や「能力」よりも、「人間としての反り」とか「なんか組みやすい」みたいなものを求め始めるような気がしてるんですよね。
僕がデザインの仕事をしていたときもそうで、理屈に落とし込むほどにこんがらがることって多いのですよ。
周囲からは、きちんと言語化することを求められたりもしますが、結局は「なんかいい感じなんで、これを提案いたします」が一番しっくりくることってあるんですよね。
一定水準以上の機能を有してることを証明もしくは共有できてしまえば、あとは「感じのいいやつ」が最強だったりするのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。