努力できることも才能、か?
2021.04.08
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。「努力に勝る天才なし」ということもあれば「努力できることも才能」なんて言い方もありますね。僕は運だったり環境の影響が大きいように感じています。誰だって自分に向いていないことを「努力だ、やれ」なんて言われても、苦痛なだけですもんね。
努力なんてつもりないんだけど
「相変わらず努力家だね」なのだそうです。
古くからの知人からメッセージがあり「たまには声を聞かせろ」というので、電話で会話をしました。
「仕事辞めて、田舎に引っ込んだんだって? 毎日なにして暮らしてるの?」に対して僕が「来月には電気工事の資格試験受けるし、秋にはIT系の試験も受ける。だから勉強して過ごしてるよ」と答えたときの反応が「相変わらず努力家だね」でした。
「相変わらずって?」と聞くと、どうやらその方の印象では、僕はだいたい常になにかの勉強をしていたイメージだったのだそうです。
あまり、そういうことについて会話をした記憶はないのですが、東京時代の僕の家の作業場と寝室には大量の書籍が溢れてたし、休日に「何やってるの?」って電話がかかってきたときに「今? ○○の練習やってた」みたいな会話があったような気もします。
僕の生活の始終を、そばで見ていた時期もある方ですから、その頃のことをちょっと思い出されたのかもしれません。
(参考:フリーランスの僕が暇な時にやったこと)
「相変わらず」の中に、うっすらと非難めいたニュアンスも含まれていましたしね。
僕自身は今も昔もとくに「努力してる」なんて思っちゃいないのですよ。
先日投稿した「なんの役にも立たなそうなことに没頭する楽しさ」でもちらっと触れましたが、職業人時代の勉強は、若干の圧迫感が動機になっていたことも否めませんけどね。
基本的には、好きでやってることだし、自分の職業に関することならば、知識や技能をアップデートし続けることなんて当たり前ですからね。
努力ってずっと奨励されてきましたよね
思えば、子供時代からずっと努力することを求められ続けてきました。
「努力に勝る天才なし」とか「継続は力なり」なんてことも言いますしね。
とにかく、努力をしていれば人から尊敬される人間になれるし、目標に達する可能性も高まるのだということを繰り返し聞かされて育ってきました。
それに反論するかのように「努力できることも才能だ」という言葉も耳にしますよね。
著名なアスリートを指して「彼は努力の天才なんです」と評したりね。
「努力に勝る天才なし」という言葉の中には、才能は限られた者にしか与えられないけれども、努力は誰にだってできるんだというニュアンスを含んでいますが、努力だって誰にでもできることじゃないよってことですよね。
際立った才能があるわけでもなく、努力することも困難な人にとっては、なかなかしょんぼりな結論ですよね。
それでも努力が奨励され続けているのは、やってみなきゃわからないからなんでしょうね。
努力のふりだけでも続けていれば、何かをきっかけに本当に努力人になる可能性もありますしね。
当たり外れがあるんです
「合う努力/合わない努力」「楽しい努力/苦痛な努力」ってありますよね。
実際、一定期間やってみないとなんとも言えませんけどね。
反対に一定期間やっちゃうと今度は費やした期間がもったいなくて、合わない苦痛な努力から抜けられなくなったりもしますから、なかなか見極めの難しいところです。
でも、努力って本当にハマればパフォーマンスが向上するんですよ。
その体験が増えるに従って「合う&楽しい」の幅が広がっていくような気がしています。
前述の「努力できることも才能」という言葉に対しては「まあ、そうかもなあ」とも思うのですが、反面「当たりを引いてないだけなんじゃない?」とも思うのです。
時期なものも影響しているような気もします。
僕もずっと「努力だとは思っていないのです。楽しいからやっているのです」なんて生意気なことを書いていますが、ダメダメだった時期もいっぱいあります。
しかも、繰り返し。
人間だれしも「周囲の評価が低すぎる」とか「誰々が悪い、気に入らない」みたいなネガティブモードに入っちゃっうことってあるじゃないですか?
他の方のことはよく分かりませんが、僕だけじゃないはずなんですよね。
そういうときって同時に自分に対してもなんとなく「努力しなくても、成果なくても大目に見てもらえる」みたいな、安易な期待をしちゃってるんですよね。
「かつて努力していたことがある」「成果を出したことがある」みたいな過去にすがるのも、こういう局面だったりしますね。
努力しない/できないときには、それなりの言い訳が自分のなかで準備されてるものなのですよ。
大切なのは、環境なんじゃない?
来る日も来る日も「合わない&苦痛」な努力と向き合っていると気が滅入りますけどね、いつかは「合う&楽しい」と出会えると信じるしかありませんよね。
これまた「運」なのでしょうね。数打ってみるしかないのですよ。
(参考:自分は運がいい、について考える)
「合わない&苦痛」に耐えながらでも、少しずつ自分のパフォーマンスを上げていくと、周囲の環境が変わります。
自分の回りの、努力の形跡を感じられる人々の割合が増してくるのです。
前述のように、人の性質なんてずっと一定ではないのです。
なにかのきっかけで変わるのです。
何気ない飲み会とかで「○○って技術に関心持ったから、片っ端から本読んでるんすよ」とか「自分のPCの中に開発環境作ってみたんすよ」みたいな話をする人が増えてくると「そういや、自分もやろうと思ってたことあったな。やるか」って気持ちになりがちですよね。
そういう環境に身を置くのも「運」の為せる技なのかもしれませんけどね。
「努力できることも才能」だと考えがちなときって、自分が調子に乗ってないときなんですよね。
そういうときは「ちょっと環境変えてみると、状況かわるかもよ」とか「思いつくものに手を出して、数打ってみりゃ当たりが出るかもよ」みたいなことを考えるようにしています。
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