こんにちは、萩ドットライフ(@hagidotlife)です。
現在、東京の清澄白河という街を本拠地を置いています。
清澄白河というのは、町名ではありません。江東区清澄と江東区白河にまたがる、東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」駅の周辺エリアを指します。
2018年9月から、山口県萩市と行ったり来たりする「二拠点生活」をしています。
山口県萩市は僕が生まれた街なんです。「山口県萩市でセミリタイア生活」をテーマに人生の転機としたいのです。
「ならば、準備期間から書き始めるか」とこのブログを書き始めました。
いわば「山口県萩市でセミリタイア生活したいくせに東京から離れられず、起こったこと、思ってることを見切り発車で書き始めてみるけど、実現するかどうかわからない。実現すればいいなぁ」な感じのブログとしてスタートさせたのです。
まだ「準備期間」の域を出ていませんが、少しずつ状況は変わり始めています。
セミリタイア生活が始まったし、無職になりました
このプロフィールをリライトしている現在、僕は55歳で無職です。
ブログ記事中ではSEO上「50代」というワードを散りばめたいので、「50代半ば」という表現を多用しています。
もともとはサラリーマンデザイナーだったのですが、33歳で独立。フリーランスのデザイナーになりました。
以降グラフィックからWebに足場を変えたものの、ずっとフリーのデザイナーとしてメシを食ってきました。
このブログを開設した2018年7月14日時点では、
「東京で得られる所得を地方で消費したい」と思ってます。
と書いていましたが、その時点ではすでにセミリタイアをイメージして、新規案件の受注を断っていたのですが、しがらみ等もあるし「完全に無職になるのはムリかな? ならば、東京にいなくても済む状態だけはキープしておこう」くらいの感じで考えていました。
そのころはすでに、リモートワークで作業する環境が整っていましたから。
その後、少しずつ周囲の理解も自分の考え方も、
という考え方に変わっていき、2019年9月25日に最後の運用案件がクローズし、現在は無職になっています。
したがって、現在は貯金と金融資産の取り崩し運用で生活しています。
『「無職」って言っちゃうとウソになる。でも言いたいのです』という記事で触れているように、若干の労働は残っていますが、微々たるものです。
地方移住に関する考え方
ホームページのタイトルを「萩ドットライフ ― 山口県萩市でセミリタイア生活」としているように、このブログのテーマは「山口県萩市(=地方)」で「セミリタイア生活(=老後の人生設計)」を送って人生を豊かにしてみようという試みの記録です。
ブログ開設当初は、
地方に移住するのであれば、生まれた街に帰るのが一番自然だし、楽かな? と思っています。
土地勘があるし、知人もいる。親の介護のときにも好都合かもしれない。そのくらいの感覚で、萩市への移住を企んでいるのです。
という考え方で、地方移住を考えていました。
それがずっとこのブログを書きながら、思考を重ねていくに連れ「新しい人生が始まる、ワクワクの街」として萩への移住を考えるように、少し考え方が変わってきています。
当然、東京暮らしが長いので、考え方や感覚、ルールや風習が異なることもあるでしょう。
だって、僕が知ってる萩は、高校生までの萩なんですから、萩人Lvは子供のころのままなのですから。
生活を始めれば、たまに東京からやって来る「お客さん」ではなくなります。
ずっと萩で暮らしてきた人たちと、ちょっとした考え方の違いが、諍(いさか)いに発展することもあるかもしれません。
そんなときは「クソっ! このイナカもんが」と感じることになるだろうと想像します。
しかし、僕は生まれた街に帰るのですから「ま、オレもここの出。もともとはイナカもんなんだからしかたねえか」と感情に折り合いをつけやすいような気がするのです。
「憧れの田舎ライフを堪能します」でも「この街の活性化に微力ながら寄与いたします」でもないのです。
まずは、自分の身を置く環境を変えることによって、自分が変わりたいし、生き方を再構築したいのです。
少年時代
生まれたのは山口県萩市の吉田町でした。小学校は明倫小。学校内に旧藩校・明倫館の史跡があり、敷地内に観光客がいました。
中学校は萩一中(今の東中)。バレー部でした。
入学後すぐに椿東上野に引っ越しました。学校から1.5kmありましたけど、徒歩通学でしたね。たしか、2km超えないと自転車通学できないんだったっけな?
この家が今でも帰省先であり、二拠点生活をしている「萩の作業場」と名付けている場所は、この家の一室のことです。
高校は山口県立萩高校でした。4kmの道のりを自転車で通いました。ここでもバレー部。毎日、練習着持っていくので、カバン2つでしたね。
弁当も2つ持っていってました。2時限終了後に0.5、昼休みに1、練習前に0.5 食べてました。
学生時代
中・高と6年間バレーボールをやっていたので、いつしか「強いところでプレーしたい」「将来、指導者になって自分のチームもちたい」と思うようになっていました。その願いをかなえるため、バレー部が強く体育学部がある大学をいくつか受験しました。
1回目は失敗、浪人しました。浪人中の1年間も萩高に通いました。
補修科って今でもあるんでしょうかね? 高校に付設された予備校みたいなもんでしたね。ホントは広島とか福岡の予備校に通いたかったんですが、体育学部志望なので実技試験に備えて、体育館を使わせてもらう必要があったんです。
もちろん、高校のバレー部の練習に参加しつつの指導アシストは必須になりますね。
2年目は第一志望に合格。順天堂大学に進学することになり、萩を出て千葉県の習志野市民になります。
順天堂って、1年間寮生活しなきゃいけないんですよ。
1室5〜6名、体育学部と医学部が混ざって生活するんですが、今となってはいい思い出ですね。
2年生になったら、寮を出てバレー部の合宿所暮らし。
合宿所って言っても、ボロボロの木造アパートを借り上げてるだけだったんですけどね。
「チームメイトに全日本選手のいる風景」とか「昭和の体育会あるある」みたいなストーリーはいっぱいありますが、このブログとは趣(おもむき)が違うので、とくに触れません。
職業なんて決めてなかった
大学4年のとき、山口県の教員採用試験を受けました。高校保健体育。落ちました。
1年目で落ちるのはザラで、講師として勤務しながら次年に再挑戦するのが通常の方法だったようですが、僕はそれをしませんでした。
自分の会社を持ちたいと思うようになってたんですね。そんなに熱を持ってる感じではなく「なんとなく」な感じですね。
できることならば零細企業に就職したいと思っていました。だって、何年後かに自分が会社を作るとき、まずは零細企業を作るに決まってるんですから。零細企業どころか「ひとり社長」からはじめることになりますからね。
やりたい職業なんてありませんでした。希望は「10年後に自分の会社を作りたい」という、なんともいい加減なものでした。あまり考えてなかったってことですね。
今になって振り返ると「10年もの期間は必要なかったな」という印象です。
学生時代にゼミの教授が「会社でモノを言えるようになるまでに10年はかかるぞ」みたいなことを言ってたんです。たぶんそこから「10年後に」って発想したように覚えてます。
その頃よりも現在のほうが変化のスピードが速いし、何よりもネットの普及によって情報はたんまりあるし、プラットホームも新しいサービスが続々と出てきています。
今なら「何年待つとか関係なくて、独立したいときにすりゃいいよ」って思いますね。
デザイナーになりました
小さい会社なんて、何でも屋なんですよ。名刺には「営業部」って書いてありました。
その名刺で、仕入れもするし、配達も、製品企画もなんでもやるわけです。印刷物も作るし、イベントの運営もする。
人手が足りなけりゃ、パートのおばちゃんに混ざって組み立て・梱包。そこに気づきがあって、パッケージや説明書の用紙サイズを更新したり。
一番ハマったのが、印刷物やイベントの掲示物の制作です。もちろん発注側です。
いろんな業者に依頼しながら進めて行くのですが、その中のひとりに、個人経営のデザイナーさんがいました。本人は「設計者」と名乗っておられたのですが、パンフやリーフレット、チラシを発注していました。
その人が道具を持ってきて、僕と会話しながら、目の前で作業していくんですよ。そりゃ、手伝いますよね。
何年も経過すると、ふたりで作業を分担するようになるし、その人がいない間に、僕ひとりでで作業を進めるようにもなる。
写植の発注から、版下制作(トレーシングペーパー被せて指定を手書きするんですよ)、製版所の人とのやりとりまで、ひととおりやるようになってましたね。
そうこうするうちに、世の中だんだんと「Macっていうコンピューターで版下作れるよ、DTPっての」ってことになってきました。
最初のうちはみんなバカにしてたんじゃなかったかな? 世の常ですね。バカにすべき理由は、探そうと思えばいくらでもありましたしし、「新しいもん、とりあえずdisっとけ大喜利」みたいなのが始まりますしね。
僕は、気になって気になって仕方なくて、ずっと「いいな〜」と情報誌を眺める日々でした。このころMac関係の雑誌、毎号買ってましたね。しかも捨てずにベッド横に積んでた。
PowerMacブームのときにようやく社長を口説きに口説いて購入。DTPデザイナー(この職業名、難アリだと思うんだけど、もう一般名称だよね)っぽい感じになります。
OEMで他社製品も作ってた会社だったんだけど、パッケージや取説、ブリスターパックの台紙、チラシ、店頭DSPなんかも込みで受注できるようになり、そのころは完全にハウスデザイナーと化してました。
この頃からなんとなく「オレ、デザイナーとして独立するんだろうな」と思うようになってましたね。
美術・芸術系の教育受けたわけでもないし、広告代理店や制作会社に勤務したこともない。いろいろ不安は山積みでしたけど「ま、いいや。デザインの注文もらえるヤツがデザイナーなんだし」ということで独立に踏み切ります。
社会人経験10年になるタイミングでした。
社会に出るときに心に描いていた「10年後に自分の会社を作りたい」が背中を押してくれました。
会社を設立し、倒れかけ、Webデザイナーとして食えるようになりました
最初は3人いたんですよ。当時、出資金の最低金額って決まってましたから、300万円で有限会社設立。各自100万円ずつ出し合いました。1997年(平成9年)のこと。
結局は、3年後に僕が他2人の出資分を買い取る形で、ひとり社長になりました。3人が3人ともやりたいこと、できることが違ってたんですね。遠い日の思い出です。
会社設立してしばらくは、舞台公演をプロデュースしていたり、グラフィックデザインの受注をしたくて営業活動をしていたり。
他にも、思いついたことに次々と手を付けてましたね。
盛大な借金もつくりました。
結局、Webデザインの仕事がうまくハマってくれて、どうにかこうにか生き延びることができたし、55歳までフリーランスのデザイナーで食っていくことができました。
(参考:フリーランスになったころの失敗を記して、平成時代を後にしよう)
概ね、運と周りの人に恵まれていました。
ずっと発注してくれてるクライアントがありました。その会社の合併のどさくさで、いっとき戦力外になったこともありましたが、2年後には提携業者に戻してくれました。
このメインクライアントの存在のお陰で、他の取引を冷静に判断することができました。
今では「依頼が発生する『かもしれない』」の段階でスケジュールを確保するのは、このメインクライアントの案件だけです。
無職になる前の最後の案件もこのクライアントのものでした。
匿名ブログにしようと思います
冒頭「こんにちは、萩ドットライフ(@hagidotlife)です」と名乗ったように、匿名にしようと思っています。
しかし、ワリと詳細に経歴を書いていますので、旧知の人が見ると、あっさり身バレすると思うのです。
「生まれた街に帰るよ」「セミリタイアするよ」「職業に対する考え方を変えるよ」みたいな、人生の岐路っぽい話をしていきたいので、背景は可能な限りクッキリさせたいのですよ。
だから、身バレしても構わないと思っています。
そして、こういうテーマを金銭的なは話題抜きで語ることは難しいのです。
どうしても「資産ありき」でないと、行動に移せないことって多いし、僕自身そのことをすごく意識しているし、上手にコンテンツ化したいと思っているからなのです。
このブログも収益化したいので「運用成績」みたいなコンテンツも書くだろうし。
お金のことを話題にするのに、そんなに神経質になってるわけじゃありません。
勤務先がわかれば、なんとなくフトコロ具合もわかるこのご時世ですからね。
自分はバレてもいいんですよ。問題は家族とかにね「金、融通してくれ」とか「誰々が困ってる」みたいな話が行くのが嫌なんですよ。実家、客商売してますからね「お断りします」と言わない断り方できる余地を作りたいのです。
実名さえ出してなければ「萩ドットライフ? そんなのやってるのはウチの家族じゃないと思いますよ、よく知りませんけど」で逃げられるでしょう。
セミリタイアはセミワーク
金、要らんわけないですよね。年金出るまでにまだ相当期間ありますし、僕、国民年金しか払ってない期間が長かったり、どん底のときには、相当の未納期間もあるので、65歳で受給し始めるとたぶん8万円/月くらいなんですよ。だから「悠々自適な年金生活」なんてものは、ありゃしないのです。
なので「不動産運用」「金融資産運用」「労働」の3本柱で、老後の組み立てを考えています。
1 不動産運用
今住んでるマンションを賃貸に出します、まだ住宅ローン返済中です。「住宅ローン借りながら、賃貸に出せないんじゃないの?」そのとおりです。でも、こうしてブログで公開する以上、クリーンハンドで実施します。規約違反はいたしません。
この辺は「フラット35で住宅ローンを組んでいれば、賃貸に出せるようです」という記事にまとめています。
2 金融資産運用
実は住宅ローンを一括返済できるだけの金融資産は、すでにあるのですよ。でも、返済せずにローンは借りたままにしておいて、便利に出し入れできる資産として運用しつつ萩で生活する資金にしようかと思っています。
インデックスファンドとETFをいくつか保有していています。個別株を激しく売買していたり、FXで一攫千金を狙ってるワケじゃありません。基本、ほったらかしです。
なので、手に汗握るような記事はかけませんが、投資環境について思うこととか、なんでこういうポートフォリオにしてるのか、とかを思いつくままに書いていこうと思います。
3 労働
上記1・2を合せると、贅沢さえしなけりゃ死なない感じにはなってるんです。ただ、もう少しゆとりがほしいので「労働」による所得を加えようという目論見なんですね。だから、新規請負とか協業とかのメンド臭いことはもうやりません。
あくまで「セミワーク」。自分の好きなことだけ、好きなタイミングでやっていたいのです。
東京のメインクライアントの仕事を先方が望む限り引き受けること、そして、このブログ「萩ドットライフ」から少しでも収益を得られるように運用してみようと思っています。
クライアントワークを完全リモートで捌きつつ、自己完結型の労働を育てようと思っています。
このブログのあちこちで「生産的な趣味」とか「娯楽としての労働」というワードを使っています。
ブログを書き始めるに際して
このブログを解説する2018年7月まで、自分でブログの運用をしたことはありません。
出資している会社で、少しの期間思っていることを書いていたことはあるのですが、数のうちには入らないでしょう。
ほぼ「初体験」だと思ってはじめました。
でも「やってみると楽しそうかな」と思ってはじめました。
ずっとデザイナーを生業にしてきて、コピーや写真、動画を素材として供給されることは多かったのですが、自分で作った経験はまったくないのです。
「オレもそれ、初心者になって始めてみたいな」と。
開設したときに公開したこのプロフィールでは、
最初はダサいものを公開することになります。ダサいものを量産しつつ、だんだん上手くなって、受け入れられるようになれば、来訪者がふえるだろうし収益にも反映される。勝手にそう思っています。
制作者としての自給自足をしてみたいんですよ。都会に疲れたおっちゃんが、就農したがるみたいな感じですかね。
僕の人生ストーリーの中に必要な「景」だと思っちゃったんですよね。
と書いていました。
あれから、ずっと継続できているので「まあ、自分に向いてるんじゃない?」と思っています。
「自分のことなんか、誰も期にしてない。恥ずかしかろうが、笑われようが、60点程度の出来で公開する」と、ハードルを下げているのがずっと続いている原因かもしれません。
これまで、人生の節目々々で、何かの初心者になることを繰り返してきました。楽しいんですよね。
あと、何ゲームできるのか。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。
(最終更新日: 2019年10月31日|投稿者: )